犯罪者の狂気~知人女性に入れ墨を彫った男と死刑になった市川一家4人殺人犯

女性に酒を飲ませ昏睡状態にした後、勝手に女性の尻に入れ墨をした男が捕まりました。

知人女性の尻に入れ墨「N」 傷害容疑の男「他にも…」1/5(金) 朝日新聞デジタル

犯人は何を考えてるんだ?犯罪者の頭の中は一体どうなってるんでしょう。

こんな狂気を持った男と知り合いになったのは運の悪かったことですが、部屋に行くまでは

自分の意思で行ったと思われ、被害者にも油断があったのでしょう。

(ニュースには拉致されたとは書いてありませんので。)

「君子危うきに近寄らず」の格言が思い浮かびます。

簡単には消せない入れ墨をされた女性は大きなショックを受けているでしょうが、命だけは

助かったと思い、これからの人生を大切に生きていくしかありません。

さて、犯罪者の狂気と言えば、昨年の12月19日に死刑執行された極悪・鬼畜の犯人は「入

れ墨男」どころの狂気ではありませんでした。

死刑執行された一人・関光彦(てるひこ)死刑囚(執行時44歳)の犯行内容を読むと、

死刑廃止論者が愚かに思えてしまいます。

死刑は、殺された被害者・被害者家族の気持ちに答えることのできる唯一の方法ではないで

しょうか。

犯人を死刑にしたところで、被害者の命や被害者家族の幸せだった生活は戻ってきません

し、遺族の心も安らがないでしょうが、そんな遺族に対するせめてもの国家のかたき討ちだ

と思います。

それに、そんな極悪犯人がもし世の中に出てきたら、再び犯行を重ねる可能性も大きいはず。

二度とその犯人に殺人を起こさせないという観点からも死刑は意味のある制度だと思います。

さて、死刑になった関光彦(てるひこ)の起こした事件は、東京新聞(2017年12月19日

夕刊)によると、

確定判決によると関死刑囚は九二年三月、千葉県市川市の会社役員=当時(42)=宅に押し入り、役員の母=同(83)=を絞殺。その後、帰宅した妻=同(36)=と役員本人、次女=同(4つ)=を次々と刺殺。当時十五歳の長女にもけがをさせて約三十四万円を奪うなどした。

たったこれだけの内容です。

しかし、一家四人を殺し、当時15歳の長女に怪我をさせたという記述の裏には、鬼畜のよ

うな残酷な犯行がありました。

〈市川一家4人殺人事件 Wikipediaより。抜粋〉

被害者一家は、営団地下鉄(現:東京メトロ)東西線行徳駅から南東約2kmの、東京湾に面した、首都高速湾岸線千鳥町出入口付近に位置する、市川市幸2丁目の新興住宅街に建つ、9階建ての高層マンションに住んでいた。

1990年頃、Aは「ベルギーのペンションを買いたい。ベルギーならドイツにもフランスにもすぐに行ける。(事件の発生した)1992年にEC(欧州諸共同体)統合があるので、あちらに拠点を持って活動したい」と語っていたが、その夢はSの凶行によって、無惨にも断ち切られた。

  • 男性A(死亡)

    • 1950年(昭和24年)8月10日生まれ、41歳没。事件7年前の1985年、写真週刊誌『Emma』(文藝春秋)記事に掲載された、当時ロス疑惑で注目されていた三浦和義が、スワッピング・パーティーに参加した際のプライベート写真を撮影した、フリーランスのカメラマンであった。1987年(昭和62年)3月にDと結婚してBを養子として引き取り、同年8月に妻Dとともに、行徳駅前のマンションを事務所に、雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社を設立し、その取締役を務めていた。結婚後は年頃の娘を持つようになったことから、それまでの風俗関連から離れ、事件直前まで妻Dとともに料理雑誌の仕事を中心にし、フリーランスのカメラマンとして、レストラン・温泉地などの写真を撮影していた。近隣住民の話によると夫婦揃ってカメラボックスを抱えて事務所に出入りする姿も見られたという。午後9時40分頃に帰宅した直後、背後からSに左肩を刺されて致命傷を負い、翌6日午前零時半頃にSに包丁で背中を再び刺され死亡した。
  • 少女B(負傷)

    • 1976年(昭和51年)3月19日生まれ、事件当時15歳。Aの長女で、事件当時は船橋市内の県立高校に通学する1年生だった。Aの実子ではなく、母Dが離婚した前夫との間にもうけた連れ子で、AとはDが再婚した際に養子縁組した養女であった。共働きの両親に代わって10歳以上離れた妹Eを朝夕、保育園に送迎するなど、優しい性格であり、通学する県立高校では演劇部や美術部などに所属し、クラスの副委員長も務め、将来は美術関係の大学進学を希望するごく普通の女子高生だった。一連の事件では帰宅直後から、Sが逮捕されるまでの約14時間にわたってSに監禁され、その目の前で、既に殺されていた祖母Cを除く家族3人を惨殺された。また、事件前の2月12日に2回、母Dを目の前で殺害された直後に1回、父Aを殺害され、Sにラブホテルに連れ込まれた際に2回と、計5度にわたってSに強姦される被害を受けた。
    • 事件後、両親の知人の下に身を寄せた後、事件1年後の1993年に熊本県の母方の実家に引き取られた。高校を卒業後、故郷の熊本を離れ、事件前から夢見ていた美術系大学に進学して2000年春に卒業した。永瀬の取材に対しては「もう、事件のことは忘れました。でないと前に進めませんから。(犯人のSが)どういう刑を受けようと、まったく関心ありません。でも(極刑は)当然だと思います」と気丈に語っており、知人に対しては「バリバリ働いて私を育ててくれた母のようなキャリアウーマンになりたい」と将来の希望を語っていた。その後、Sの死刑確定後の2004年(平成16年)春にかねてから交際していた男性と結婚して日本を離れ、生前の両親の夢であったヨーロッパで暮らしているという。『東京新聞』の取材に対し、事件現場近所の主婦は一人遺されたBについて「心に受けた深い傷は想像を絶する。幸せを願い、そっとしておいてあげたい」と気遣い、現場に駆けつけた当時の捜査幹部は「とにかく酷かった。母親に息子夫婦、幼い子まで…被害者のために、間違いのないようになんとか裁判まで持っていこうと全力を尽くした」と振り返った。
  • 女性C(死亡)

    • 1908年(明治41年)7月4日生まれ、83歳没。Aの実母で、B・Eの父方の祖母であった。高齢のため、散歩に出るとき以外は玄関北側の自室で過ごしていたことが多かった。午後4時半頃、自宅に侵入してきたSに首を絞められて死亡し、一連の事件で最初の犠牲者となった。
  • 女性D(死亡)

    • 1955年(昭和30年)6月19日生まれ、36歳没。Aの妻で、1987年(昭和62年)3月にAと結婚し、同月にEを出産した。『読売新聞』報道によれば、前夫との間に生まれたBと一緒に、出身地の熊本県八代市から市川市に転居し、行徳駅前のマンションに部屋を借りて写真の勉強をしていた。その後、フリーカメラマンだったAと知り合って結婚・Eを出産し、1988年8月に現場マンションに引っ越した。同年8月に雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社を夫Aとともに設立し、その代表取締役を務め、「中村小夜子」というペンネームで、フリーランスのライターとして料理雑誌などのコラム欄などを担当していた。午後7時頃にBとともに帰宅した直後、Bの目の前でSに包丁で刺され死亡した。
  • 幼女E(死亡)

    • 1987年(昭和62年)3月17日生まれ、4歳没。A・D夫妻の長女だが、既に養女としてBがいたため「次女」とされることが多い。Bの妹で、事件当時は市川市内の保育園に通う保育園児だった。同園の職員は園児たちに対し、Eについては事件のことは伏せて「遠くに引っ越した」と伝えたという。3月6日午前6時半頃、姉Bの目の前でSに包丁で刺され死亡した。

あまりにもひどい犯行内容に憤りつつ、Wikipediaの〈市川一家4人殺人事件〉を全文読ん

でしまいました。

人間の中には、ここまで残酷な人間、アホな人間がいるということですね。

突然ですけど、地震に対する備えより、こういうアホな人間に対する防御を考える方がよ

ほど身の安全を守ることになるのではないかと思ってしまいます。

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