何と幕末の京都で起きたパークス襲撃事件で使われた刀が、このたび京都国立博物館で展示されるという。
刀は、当館の特別展「没後150年 坂本龍馬」で初公開されますが、ぜひ行ってみたいと思っています。

襲撃犯の林田貞堅(はやし さだかた)の刀の柄には、目釘穴が3個開いています。
これは、「すりあげ物」と言って、作られたときは太刀(刀身が長いもの)であったものを刀の出来が良いので
後世の武士が太刀の柄を切り詰めて短くし、腰にさせるようにしたものです。

この際、太刀の柄に彫り込んであった銘が切り落とされて無くなることが多いので、「無銘物」と呼んでいます。
林田貞堅のこの刀は果たして、刀工は誰で、どのような名刀であったのでしょうか。

一方、パークスの護衛に当たっていた元薩摩藩士の中井弘(ひろむ)が使った刀も一緒に展示されるという。

襲撃の際、中井弘は応戦して、林田を討ち取りました。
両者の刀の深い刃こぼれが、実際の切り合い(戦闘)の激しさを150年後の現代に語り掛けています。

中井弘は元薩摩藩士ですので、剣の流派はおそらく示現流であったと思います。

示現流のするどい気合を発しながら袈裟掛けに切り込むその激しい太刀筋は、幕末の武士たちに恐れられていました。
切り込んでくる刀を自分の刀で受けても、その刀ごと、肩から切り下げられたそうです。

新選組も「薩摩の初太刀ははずせ!」と言っていたようです。(と、何かで読みました)

 

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(出典:朝日新聞デジタル)襲撃犯の林田貞堅が使用した刀=5日、京都市東山区、佐藤慈子撮影

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(出典:朝日新聞デジタル)迎え撃った中井弘が使用した刀=5日、京都市東山区、佐藤慈子撮影

 

写真・図版写真・図版

 

(出典:朝日新聞デジタル)

 

パークス襲撃事件、2振りの刀初公開へ 京都国立博物館
朝日新聞デジタル2016年9月5日19時55分11 久保智祥

幕末の1868年3月に、英国公使のパークス一行が京都で攘夷(じょうい)派の志士に襲われた事件で、襲撃犯が使った刀が確認された。京都国立博物館(京博、京都市東山区)が5日、発表した。10月15日からの特別展「没後150年 坂本龍馬」で初公開される。

刀は、襲撃犯の林田貞堅(さだかた、朱雀操〈すざくみさお〉)が使ったもので、刃長74・3センチ。林田の墓所近くにある霊明(れいめい)神社(同区)が所蔵していた。研究者らの間で存在は知られていたが、京博が刃こぼれの目立つ状態や、1888年に親戚から神社へ奉納された際の記録から林田のものと確認した。

京博には、パークスを護衛していて応戦し、林田を討ち取った元薩摩藩士の中井弘(ひろむ)が使った刀が、中井の娘婿で後に首相となる原敬から1903年に寄贈されている。今回、二つの刀が約150年ぶりに「再会」する。・・・(以下略)

 

パークス襲撃事件とは

(出典:ウィキペディア)
パークス襲撃事件[編集]
慶応4年2月30日(1868年3月23日)、イギリス公使パークス一行は明治天皇に謁見するため宿舎の知恩院を出て御所に向かう途上、2人の男に襲撃された。すぐさま護衛の中井弘蔵と後藤象二郎が反撃し、犯人の一人朱雀操を斬殺した。もう一人の犯人である三枝蓊も他の警護兵に重傷を負わされ、逃走しようとした所を捕縛され、襲撃は失敗に終わった。三枝は同年3月4日に斬首された。

 

何と何と、パークスの護衛には、「後藤象二郎」もいたのですね。
幕末の京の都が本当にリアルに感じられます。

 

林田貞堅(朱雀操)とは、どんな武士?

京都出身で、勤王の志士のリーダー格ではなかったようですね。
下記の記事には、戦闘時の様子が詳しく書いてあります。
原典をぜひ読んでみたいですね。

(出典:ウィキペディア)
京都洛西桂村出身。元小堀家家来というが、村医者の息子で士分ではなかったという説もある。慶応3年(1867年)12月、鷲尾隆聚、田中顕助らの高野山義軍に参加し大和方面を転戦。その後、義軍は京都に入り解散し、朝廷御親兵となった。

大政奉還後、新政府が攘夷を捨て外国との交際を行う事が明らかになると、新政府に失望し、同志と共に独自に攘夷の断行を画策する。
慶応4年(1868年)2月30日、イギリス公使ハリー・パークスが明治天皇に謁見するため宿所の知恩院から御所に向う途上、朱雀は同志三枝蓊と2人でパークス一行に斬り込んだ。朱雀らはイギリス兵9人に負傷を負わせるが、一行の警備は厳重であり、朱雀はパークスに同行していた護衛の薩摩藩出身の中井弘と斬り合いになり、中井に胸部を刺され、駆けつけた土佐藩参政後藤象二郎に斬られて倒れたところを中井に首を刎ねられ、三枝も重傷を負ったところを警備兵に捕縛され襲撃は失敗に終わる。

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