アメフト部内田監督の暴力・嘘は理事長以下、日大上層部の不正・暴力体質か

日大アメフト部元監督の内田氏の発言(嘘)は、困ったものです。

日大・内田監督と井上コーチの大嘘記者会見を見て「腹立ったー」』でも書いたけ

ど、何度このニュースを見ても、日大や内田氏の態度・発言内容には納得がいきませ

ん。

試合直後に内田監督をインタビューしたスポーツ記者の前で、「自分の指示で宮川に暴

力プレーをやらせた」と明言して、それが音声データにちゃんと残っているのに、それ

でも、後日の内田・井上記者会見では、「あの時は、宮川選手の罪をかぶってやるため

に、あのよう言った」と平然と嘘をつく。

内田氏たち指導者は学生を守り育てる立場なのに、学生にすべての責任をなすりつけよ

うとしています。でも、こんなことやっては、いかんね。

ネット社会は個人を痛めつけるというマイナス面があるけれど、「宮川選手の成長を願

って指導していた」などと白々しい大嘘をつき、全部、宮川選手のせいにして、逃げ延

びようとしている内田監督はネットの力で絶対に追求すべきと思ってしまいます。

まあ、内田氏たちの不誠実な記者会見は不愉快なものでしたが、社会的地位もある内田

監督が人前で平然と見え見えの嘘をついているのを見て、こういう人間も世の中にはい

るんだという勉強にはなったと思いますね。

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理事長、内田監督、井上コーチの関係性

今回の事件で一際目立ったのは、日大上層部に誰一人として真相解明をすべきと語った

人がいなかったということですね。

教職員組合が、「真相解明」に向けて動き出しましたが、残念ながら組合は日大の組

織ではありません。

宮川選手の記者会見内容、内田監督の暴力肯定の録音テープなど、どれをみても宮川選

手に暴力プレーを指示しているんだけど、日大のNo.2がやらせた事件なので、組織とし

ては絶対に認められないということなんででしょう。

宮川選手はやったことはアカンけど、若干二十歳で日大という大組織を相手に、よう一

人で立ち向かったよ。

コーチの井上氏は自分がすべてをかぶると仲間内には伝えているそうですが、彼は内田

氏に日大への就職を世話されたりして全面的に内田氏に依存していたので、こういう立

場に甘んじるしかないんでしょう。

さて、こんな社会問題になっても、日大トップの理事長は表に出てきません。『日大はどんな大学なの、組織は?学長・理事長・常任理事はどんな人

この理事長の名前は、田中 英壽(たなか ひでとし)。

彼には、これまで黒い噂がつきまとっていました。

そりゃ、大手暴力団の組長と仲良くツーショット写真を撮りゃあ、疑われてもしようが

ありません。

次は3年前の「講談社現代ビジネス」の記事です。

この記事によると、

『読売新聞』(2013年2月1日付)が社会面トップで取り上げた受注業者からのキックバックについて。

記事によれば、田中理事長は、12年までの約6年間に、日本大学の工事を受注している建設会社から計5百数十万円を受け取っていたという。

また、

日大については、これまでにさまざまな疑惑が指摘されてきた。特に、田中理事長になってからの内部告発は激しく、警視庁が内偵捜査に入り、国税が集中的に調べた事実もある。

田中理事長は、日大相撲部出身で、学生横綱、アマ横綱など34のタイトルを獲得。相撲部監督に転じてからは、舞の海、高見盛など多くの力士を育て上げ、大相撲に貢献した。そのために各界に幅広い人脈を持ち、なかにはイトマン事件で主役を務めた許永中氏(服役を終えて韓国在住)のようなグレーゾーン領域の住民も含まれている。

ということです。

日大・田中理事長とは

日大理事長と山口組組長の写真が海外メディアで報じられ、下村文科相が調査を約束2015.04.23 現代ビジネス

日大理事長と山口組6代目の親密写真
1枚の写真が波紋を広げている。

どこかのクラブで撮られた写真で、左に座っているのが日本大学の田中英寿理事長。右のノーネクタイのスーツ姿が山口組6代目の司忍(本名・篠田建市)組長である。

暴力団排除の気運のなか、親密交際を示すような写真が流出するのは致命的である。まして日大は、大学院から付属幼稚園まで10万人に迫る在校生を抱える日本最大の大学グループ。大学単体で年間約100億円の私学助成金を受け取っている。そのトップである理事長には、高い倫理性と社会性が求められている。

実は、このツーショット写真が流出したのは昨年9月頃だが、両者への確認が難しいのと、後述する襲撃事件によって、入手したマスコミは公表を手控えていた。それを掲載したのは、米を中心とするネット雑誌だった。以降、「日大・田中と山口組トップ」の関係が、もやもやした形で伝えられていたのだが、4月15日、東京オリンピックに絡めて、国会で取り上げられた。

・・・・
問題としたのは、次の2点である。

ひとつは、『読売新聞』(2013年2月1日付)が社会面トップで取り上げた受注業者からのキックバックについて。

記事によれば、田中理事長は、12年までの約6年間に、日本大学の工事を受注している建設会社から計5百数十万円を受け取っていたという。

金額は1回あたり10万円前後で50回以上。この建設会社は、大学施設の解体、内装、修繕や学生寮の新築などの工事を直接、もしくはゼネコンなどの下請けで受注。受注件数は、12年4月までの5年間で約150件、受注総額は20数億円に上っていた。

牧氏が、「文科省は事実確認をしたのか」と、質したところ、答弁に立ったスポーツ青年局長は、大学側の第三者委員会の調査結果は、「工事発注に伴う謝礼ではないということだった」と、答弁した。

・・・・

ふたつ目が、件のツーショット写真を海外のメディアが報じていることだった。報じたのは、ネット配信のヴァイス・ニュース、デイリー・ビースト、ブルームバーグなど。

牧氏は、こうした有力海外誌が、「反社会的勢力トップと日大理事長との親密な関係が、オリンピックにおけるヤクザの暗躍につながることを懸念している」と指摘。また、この事実をメディアの報道に頼るだけでなく、自分自身、日大関係者に確認したとしたうえで、文科省のこれまでの対応を質した。

・・・・・

要は、当事者(日大とオリンピック委員会)が「疑惑がない」といっているだけで、文科省が調べたわけではない。

日大については、これまでにさまざまな疑惑が指摘されてきた。特に、田中理事長になってからの内部告発は激しく、警視庁が内偵捜査に入り、国税が集中的に調べた事実もある。

・・・・

力士とタニマチの関係が切っても切れないように、相撲界の「ごっつぁん体質」は田中氏にも染み付き、それが一職員から、理事、常務理事に出世、08年に理事長に就任しても続いたという。

日大の内部告発は数多く、「巨額の私学助成金を受け取っている日大に発生している数々の疑惑」に、本格的に取り組んだのが会員制月刊誌の『FACTA』であり、同誌の追及記事は、「日大理事長『田中』と裏社会」というタイトルで始まった12年2月号の記事からこれまでに11回を数える。

その過程で、前述の読売報道や山口組6代目とのツーショット写真の流出などがあり、同誌の報道を裏付けた。

・・・・・

こうした田中理事長の下、腹心の部下でありお友達の内田氏が日大No.2で控えていると

なると、誰も文句が言えないことは容易に想像できます。

そんな非民主的なヒエラルキーの7合目?辺りにいる日大広報部の米倉久邦氏が、司会で

ありながら、あんな横柄な態度を取ったことは妙に頷けます。

日大会見「ぶちギレ司会者」、3年前の不祥事会見でも司会務めていた…秘蔵映像を「とくダネ」が放送
2018年5月25日 8時46分 スポーツ報知

25日放送のフジテレビ系「とくダネ!」(月~金曜・前8時)では、23日の日大アメフト部の会見の司会を務めた日大広報部の米倉久邦氏の過去の映像を報じた。

23日の会見では1度の挙手で5個以上の質問を重ねる記者が続出。1時間45分が経過したところで打ち切ろうとしたが「納得いかない」「まだ質問させろ」と一部報道陣から不満の声が挙がるなど収拾がつかない事態に。「みんな見ているんだ。あなたのせいで日大のブランドが落ちますよ」の“口撃”に「落ちません!」と即答で応酬した。

会見後、米倉氏は記者から名前を聞かれると「私は広報で対応しただけです」と応じ、名前は「言う必要はないでしょ」と答えていた。その後、別の職員が名字を「米倉」と発表したが、名前については「すみません、ちょっと伺っておりません」と答えていた。

番組では2015年11月に開かれた日大の謝罪会見を放送。会見で記者から名前を聞かれた米倉氏は「米倉と申します。米の倉と書いて」とし、名前を聞かれ「久しいに連邦の邦でひさくに。広報に電話していただければ分かります」と告げていた。

この時の会見は名誉教授が反社会的勢力から2000万円を借金していた問題だった。当時の会見でも当事者が答えられないと米倉氏が答え助け船を出す場面があった。

次はちょっと古い話ですが、やっぱり日大の非民主的、暴力体質を如実に現している事

件でした。

日大数学科事件〈出典:Wikipedia〉

日大数学科事件(にちだいすうがっかじけん)は、当時日本大学に勤務していた教職員が辞表を要求され暴行された事件である。

経緯
1962年(昭和37年)11月に日本大学文理学部の秋葉安太郎学部長が、数学科助教授の福富節男、木下素夫、専任講師の銀林冶、倉田令二朗4名に対し「思想に合わないから来年三月迄に辞表を出してくれ」と辞職を要求した。

これに対し4人は辞職要求を拒みつつ、日大に見切りをつけるため新たな就職先を探した。翌1963年の1月から3月にかけて、福富は東京農工大学、銀林は明治大学へ移ったものの、倉田は東京理科大学数学科への転職が一度内定していたが、退職理由が不明ということで転職できず、木下、倉田の2名は職員として日大に籍を置く結果となった。

2人への待遇は、諸手当を除いた基本給のみしか支給されない不当なもので、3月には日大数学科の助手1人が何の理由もなく解雇され、更に非常勤講師2人が次年度から担当する筈だった講義を外されるという事態が続いた。その後11月に、東京農工大に転職していた福富が日大文理学部に残された私物を取りに行った際、日大職員から白昼の公道で暴行を受けるといった事件が起こる。

これを受け、即急に福富は秋葉学部長に抗議文を送り、謝罪や暴行者に対する措置の返答を要求したが、誠意のある返答はされなかった。また、在籍している学生に対しても規制や制限をし、1964年6月には学内活動で目立った学生2名を退学処分にしている。

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