「ライブドア」で有名になった堀江貴文氏は、若くしてIT時代の寵児として大成功を収めた後、証券取引法違反で実刑判決(懲役2年6ヶ月)を受け服役までした人物です。
しかし、こうした挫折を経験したにも関わらず(本人がどう思っているかはわかりません)、今もなお、しぶとく生き残り、現在も大金持ち(おそらく)であり、マスコミにもよく顔を出しています。
刑務所に入るなど普通の市民にとっては、相当なストレスであったはずですが、堀江氏は何らこたえていないようです。
これだけのことを見ても彼の精神力はとてつもなく強靭で、普通の市民レベルではありませんし、堀江氏の人格そのものも普通の市民とは違うように思います。
堀江貴文氏とは、一体、どういう人なんでしょうか。
【氏名】
堀江貴文 (通称・ニックネーム)ホリエモン、たかぽん
【生年月日】
1972年10月29日(44歳)
【出身校】
東京大学文学部中退
【生い立ち】
〈出典:Wikipedia〉
祖父は久留米市出身で、八幡製鉄所(北九州市)の従業員だったが、1945年(昭和20年)頃、戦災を避けて祖母の実家のあった福岡県八女市(当時は八女郡岡山村)に疎開した。そのまま終戦に伴って同村内の筑後地方航空機乗員養成所の広大な跡地を払い下げてもらい、家を建て、土地を切り売りしながら暮らしていた。堀江が生まれ育った1970年代~1980年代には、家の周囲は主に茶畑で占められていた。1943年(昭和18年)生まれの父は7人兄弟の末子で、高校卒業後一貫して自動車販売会社に勤めてきたサラリーマンであった。父はまったく本を読まず、堀江曰く「テレビがあれば満足、巨人が勝てば大満足、という人」「文化や教養といった言葉とは無縁の家庭」であり、家には書斎はおろか本棚すらなかったが、当時訪問販売が盛んであった百科事典は家にあり、小学生の堀江はそれを最初から最後まで通読していた。
百科事典通読のお蔭か、小学生時代の堀江はずば抜けて成績優秀であったが、あまり真面目ではなく、掃除や日直の仕事をやらなかったり、少しでも気に食わないことがあれば取っ組み合いの喧嘩をしたりしていた。そのため教師からは協調性がないと評価されることが多かったものの、小学3年の時の担任だけは堀江を面白がり、学習塾に通い私立中学に進むよう勧めた。そこで堀江は、小学4年から久留米市の学習塾(全教研)に通い始めた。
生まれ育った家は、教育には無縁の家庭で本棚もなかったが、どういうわけか百科事典だけはあり、堀江貴文氏はそれを読破していたということです。
きっと、両親からすばらしいDNAを受け継いでいたのでしょう。
家庭環境は非文化的であったのに、唯一、家にあった百科事典を頭に詰め込むことができたのですから。
こうしたことは稀なケースではありますが、ないことではありません。
中学2年の時に親に約20万円の借金をして、エントリーモデルながらも本格派パソコンだったNECのPC-8801mk2SRを購入(新聞配達によって全額返済)し、かなり複雑なプログラムを組めるようになっていった。当時堀江が通っていた全教研の英語スクールでも、授業そっちのけでパソコンに熱中していたが、あるとき塾講師からの依頼を受け、塾のコンピュータの教材システムの移植作業を一人で行ったこともある。このようにコンピュータに熱中した中学時代だったが、中学2年の後半頃、パソコン通信の電子掲示板を立ち上げた際、電子掲示板のユーザーがやたらに攻撃的・批判的だったために、それ以降は徐々にパソコンとの距離をとるようになった。
高校時代には友人の家に泊まり込んで麻雀をしたり、ゲームセンターにたむろしたり、当時流行していたビリヤードで遊んだりと、自堕落な暮らしをしていた。中学・高校時代はほとんど勉強しなかったため成績は常に下位だったが、高校3年の夏に受験勉強に取り掛かり、苦手だった英語を集中的に学習するなど一日十数時間の猛勉強の末、1991年(平成3年)東京大学教養学部文科三類に合格・入学、八女を離れて上京、駒場寮の北寮へ入寮し、1・2年次を駒場寮で過ごした。大学1年の時に赤本(東京大学・文系)に合格体験記を寄稿している。
元々、複数の科学雑誌を毎号読んでいたほどの科学少年で理系希望だったが、受験勉強の期間から考えて理系で入学するのは無理だと考え、まずは文科に入学して、その後進学振り分けによって理転し、生命工学の分野に進むつもりだった。しかし入学後、駒場寮の麻雀部屋に入り浸っていた博士研究員の先輩が、優秀な研究者であるにも関わらず、国からの研究費がつかずに劣悪な環境で研究しているのを見て、「天下の東大でドクターまで進んでも、しょせんこんなものなんだ」「こんなに優秀な人でも認められず、劣悪な環境に閉じ込められるのか」と驚き、少しずつ幻滅していき、理系進学を断念。塾講師・家庭教師などのアルバイトや、麻雀、ヒッチハイク旅行などに時間を費やした。
このWikipediaの記述は、彼の人柄がよく表れているようで実に面白いです。
中学2年で、プログラミングを独学でマスターするような能力、そして、目標達成に向けた並々ならぬ行動力と精神力を感じます。
ところが一方で、”高校時代には友人の家に泊まり込んで麻雀をしたり、ゲームセンターにたむろしたりと・・・” ということで、普通の高校生に比べるとかなり素行がよくありません。
堀江氏はこのように、目標に向けて努力を惜しまない堅実な側面と、そのことによるストレスを発散させるためでしょうか、自堕落な生活を送る側面との二面性を持っているように感じます。
彼は、理系進学を断念したあと、ビジネスへの関心を深めていき(もともと野心家ではあった)、具体的な行動として会社を設立しました。
その会社とは、1996年設立の有限会社社オン・ザ・エッヂです。(翌年には株式会社に改編)
設立資金は、設立メンバーの「有馬あきこ」の父が用立てた600万円でした。
1996年(平成8年)4月、有馬あきこらと共に有限会社オン・ザ・エッヂを設立(なお、堀江はオン・ザ・エッヂを設立後に大学を中退している)。資本金には、有馬の父からの出資600万円が用いられた。1997年に株式会社に改組。同社は、当時のインターネットが普及しはじめた黎明期に、いち早くホームページ制作・管理運営を行う会社として注目を集め、レコード会社などの一流企業のサイト制作を請負いながら急速に成長していった。2002年、経営破綻した旧ライブドア社から営業権を取得した。同社はのちにライブドアへ社名変更した。
この有限会社社オン・ザ・エッヂはホームページの制作・管理を行う会社で、IT時代の波に乗り、大きく成長していきました。
堀江貴文氏は取締役社長、有馬あきこ氏は取締役に就任。
有馬あきこ氏は取締役として、総務・経理を担当すると同時に、ウェブデザイナーとして働きました。
彼女は、ウェブデザイナーの草分け的存在だったのです。
会社経営が多忙になってきたのでしょう、堀江氏は設立直後に東大を退学し、有馬あきこ氏はしばらくして、聖心女子大学を中退しています。
有限会社社オン・ザ・エッヂの創業メンバー、有馬あきこ氏について。
さて、この記事の私の最大の関心事の一つですが、有馬あきこ氏は2010年(平成22年)に死去されているということです。
そうであれば、35歳くらいで亡くなられたことになりますが、彼女に一体、何があったのでしょうか。
〈ヤフー画像:有馬あきこ氏〉
〈ヤフー画像:オン・ザ・エッヂ当時の堀江貴文氏〉
ネット情報では、ご存命のような記述もありますが、女性経営者として経済界で華々しく活躍しているはずの人の消息がぷっつり切れていますので、死亡説の方がほうが 妥当でしょう。
死因も明らかにされていないのですが、有馬あきこ氏は堀江氏の学習塾アルバイト時の教え子、そして、堀江氏の最初の恋人だったということです。
しかし、ネット情報では、堀江氏の目的は、「有馬あきこ氏の父親のお金だった」とも言われています。
〈出典:Wikipedia〉
有馬 あきこ、本名、有馬 晶子(ありま あきこ)(1975年12月15日 – ?)
日本の実業家、デザイナー、ウェブクリエーター。
有限会社オン・ザ・エッヂ(後の株式会社ライブドア)創業者で、取締役、クリアキューブ代表取締役を歴任。日本のウェブクリエーターの草分けの一人。
次は、有馬あきこ氏に関するITmediaの古い(2004年12月17日)記事です。
この時期、彼女はまだまだ、頑張っていました。
その彼女が、2010年4月26日のツイッターに「やっぱり書くことがないよ」と書き込んだ後、今日まで一切書き込みがありません。
彼女のアカウント(有馬あきこ@akikobrand)がまるで、墓標のように残っているのです。
また、彼女のブログ「akikobrand.com」も2010年4月16日で終わっています。
[杉浦正武,ITmedia] 2004年12月17日 09時01分 更新
最初は、学生4人でのスタートだった。彼女は取締役、社長は堀江貴文氏。月日は過ぎ、いま創業メンバーはそれぞれ別の道を歩いている。
最初は、学生4人でのスタートだった。有限会社オン・ザ・エッヂを立ち上げたとき、彼女は取締役で、総務と経理を兼ねていた。目の回るような忙しさの中、インターネット・デザイン関係の山のような仕事をこなした。
それから8年が過ぎ、いま創業メンバーはそれぞれ別の道を歩いている。彼女――有馬あきこさんは、クリアキューブの代表取締役をしている。
PCが生活の一部だった小学校時代
自分でも、変わった小学生だったと思う。
有馬さんの周りには、いつもビジネス雑誌の切り抜きや、経済紙があった。父は、商社勤めをへて30代半ばでアパレル関係の事業を立ち上げた起業家。弟はビジネスに興味がなさそうだったが、彼女はそんなものを読み、仕事に取り組む父の背中を見て育った。
小学校では、浮いていた。厳しくしつけられ、先生にきちんと敬語を使うような子供だった。その礼儀正しさが、いじめの対象になったのかもしれない。学校にいてもつまらないから、家に帰って本や新聞を読んでいた。
学校の先生とは、仲良しだった。たまたまプログラムの知識がある先生がいて、BASICを教えてもらったりした。PCに興味を持ち、父親にねだって買ってもらったのが「PC-9801UV2」。「マイコンBASICマガジン」を買って読む、そんな小学生だった。
中学生の頃は、彼女にとってPCはゲーム機だった。高校では音楽に興味が出て、PCで音楽を鳴らしたりしていた。途中、PCと比較的疎遠になった時期もあったが、大学に入ってMacintoshを買ってから、再びPCに向かうことになる。
「小さい頃から、PCは日常生活の一部として溶け込んでいた」
創業メンバーとの出会い
高校生の頃、彼女は風変わりな人たちと出会う。友人グループが通っていた学習塾に通うが、この塾が普通の塾ではなかった。初めて見に行った時の印象は、「戦後のバラック小屋みたい」。
大学生が講師をしていたが、その“講師”たちはみな集まって麻雀をしていた。壁には「何月何日、役満、誰それ」と張り紙がしてある、そんな雰囲気の塾だった。かといって、講師が全く無能の集まりだったというわけでもない。そこに出入りしていた学生は、みな東京大学の学生だった。
その学生の1人と、彼女は後にオン・ザ・エッヂを創業することになる。その東大生の名は、堀江貴文。今年、プロ野球界の「老害」を糾弾し、一躍マスコミ界の寵児となったライブドアの堀江社長だ。
ほかに、有馬あきこ氏の消息を伝える記事がないかと探したら、2008年04月04日のITmediaの記事がありました。
[有馬あきこ,ITmedia]
2008年04月04日 08時00分 更新
有馬あきこのはじめましてインターネット:
ベーマガ抱えたダメっぽい女子高生――でもルーズははいていた (1/2)ブログにmixi、ケータイ、Wiiと、もはや生活の一部になっている、インターネット。でも10数年前は、そんなこと想像もできなかったですよ。PC-9801シリーズからMacへ移行、PC-VANやニフティサーブなどのパソ通にハマり、そしてインターネットに初めて触れたのが1994年。この10数年の出来事を、ヨタ話を交えてお届けします。
ご存知の方はこんにちは。そうでない方は、はじめまして。有馬あきこといいます。まずは簡単に自己紹介。あのライブドアの前身にあたるオン・ザ・エッヂの創業をして、その前から、Webデザインの仕事をしていたので、経験としては今年で13年目くらいになる、Webデザイナーというか、Webのナンデモ屋です。今はクリアキューブという会社をやっています。さすがに13年もやっているといろいろあるんじゃないの? とITmediaに拾われて連載を持つことになりました。これからよろしくお願いします。
というわけで、じゃあその頃のインターネット事情ってどうだったのよ? というお話をしようと思います。
まいと~く、いらないの?
わたしのネットワーク遍歴、PC遍歴ですが、小学6年のとき、PC-9801UV2というマシンをに親にねだってゲット。お小遣いをためて、アイワのモデムと「まいと~く」を買い、パソ通(PC-VAN)にどっぷりハマります。今は亡きマイコンBASICマガジンを毎月購読し、高校に入ると、アキバの中古ゲーム屋でプリンセスメーカーを買い、デバッグモードから全エンディング制覇というような、ダメっぽい女子高生でした。一応、ルーズソックスははいてましたけど(ちょうどハシリの時期)。
月日は流れ1994年。初めてインターネットに接続された端末に触ります……が、その頃はまだよく分かっていませんでした。ブラウザはMosaicです。当時のわたしにとっては、パソ通とはずいぶんちがうなあ、というイメージ。「わー、まいと~く、いらないんだ!」とか思っていました。
1995年にWeb制作のバイトを開始。Mac(PowerMac8100/漢字Talk7)とPhotoshop(3.0/やっとレイヤーが使用可能になったバージョン)が使えるという理由で、「サイトのデザインをしてねー」と、任されたのが、www.ana.co.jpの「ANA’s WWW」(当時の名称)。しかも立ち上げです。当時のサイトは、4つか5つのメニューだけで成り立っていました。「翼の王国」を、がしがしスキャンしていたことを思い出します……。
間もなくNetscape Navigator1.0が登場し、いわゆるホームページが、それまでの全部centerタグで真ん中寄せ、bgも貼れないという簡素なものから、tableタグや、bgイメージなど、装飾が可能なものへと進化していきました(でもまだその程度)。この辺が、「サイトにデザインが必要になりはじめた」時代だと思います。ちなみに当時、Webデザイナーという言葉はありませんでした。
この時期、大きな企業が先を競ってサイトを立ち上げました。なのでわたしが関わったサイトは、どれも大企業やお国のものばかり。バイトなのに全日空かよ、みたいな。
かなり恵まれた64kの専用通信という環境 当時、唯一のインターネット専門誌だった「Internet Magazine」には、日本全国のネットワークの状況がかかれたポスターが、毎月付属していました。職場のドアに貼られていたそのポスターが新しいものに変わるたび、毎月どんどん線が増え、「この先どうなるんだろー」と感じていた記憶があります。ちなみに職場は64kの専用通信という環境。当時としてはかなり恵まれたものでした。
個人プロバイダとしてはベッコアメインターネットなどが強く、のちにテレビCMを打つほど。
検索エンジンは、AltaVistaなど海外のものを使っていました。それとntt.jpの「日本の新着情報」で、こと足りていたのです。日本の個人でもイエローページや、まぐまぐの大川さんが作っていた、「インターネットどこでもドア」といったリンク集がありました。
そう、上記の「.jp」に違和感を持つ方も多いのではと思います。当然、この頃はまだ汎用jpドメインなんて存在しませんでした。でもNTTだけが、なぜか「co.jp」ではなく、「.jp」ドメインを使っていたのです。なんでだろ……。でも、そんな「日本の新着情報」に「サイトができたよ!」と連絡すると掲載してくれて、人が集まる。そんな緩い感じでした。
確かに、アダルト系や、問題になるようなサイトがなかったわけではないけれど、まだスパムなんて言葉もない、古き良き時代です。
1996年には、Netscape Navigator2.0がリリースされ、そして同年、諸々の事情からオン・ザ・エッヂを立ち上げる事になります(続く)。
結局、2009年ころまでの彼女の足跡は確認できましたが、死亡記事等は確認できませんでした。
有馬あきこ氏は結局、早い段階で、堀江氏の経営方針についていけず、オン・ザ・エッヂを去っています。
創業メンバーであり、彼女の父親が会社の設立資金を出したのですから、堀江氏と彼女の間柄を父親はいずれ結婚するものと考えていたようです。
有馬あきこ氏の存在は、堀江氏にとっては通りすがりの人くらいだったのかもしれません。
さて、株式会社「オン・ザ・エッヂ」は、経営不振だった旧ライブドアを買収し、商号を「ライブドア」に変更して急成長することになります。
そして、最後は、ニッポン放送買収を仕掛け、株式争奪戦を演じましたが、結局、負けて証券取引法違反で実刑判決をくらうことになります。
野心家の行動力と精神力がある反面、非常に雑で不真面目な面があったのは、高校時代の彼と同じだったような気がします。
コメント
素行が悪いのはストレスとかじゃなく、価値観(好奇心)の幅が常人では測れないほど広いから、底辺の文化も実体験したくなる欲望が突き上げるんだよ。
たぶんこれ書いた人も女子だろうけど、女の優等生ではこれを素行の悪さとしか取れないで。価値観の狭さ…女子が国やまともな企業、文化をゼロから作れない理由は性差別でも何でもない。
男性社会の差別って勘違いしてるけど、真ん中に集まって常識から出れず、引かれたレールの競争しかできない女子ではジャングルから科学文明を作れないだけのこと。
出世できないって僻むなら、女子だけで起業して圧倒すればいいだけなのに、水商売や化粧品、ファッションブランド程度の起業家しか現れないという現実には目を向けれず、男が作った企業で引かれた出世レールに沿ってトップになるのがせいぜいだ。