多摩川で自殺した西部邁(にしべ すすむ)とはどんな人。

評論家・西部邁(にしべすすむ)さんが、多摩川で自殺したというニュースがありまし

た。

名前だけは見たことがあるという程度の人で、漢字の名前を見ても、読み方がわかりませ

ん。

「さいぶ まん?」「せいぶ まん?」

「萬」にシンニュウだから、「まん?」

このニュースで、初めて「にしべ すすむ」という正しい読み方がわかりました。

『2013年3月1日に、佐伯啓思・西田昌司・富岡幸一郎との座談会で「自分の咽頭部に癌が

できていると最近知った」と述べた』との記述が、Wikipediaにありますので、癌を苦にし

ての自殺だったのかもしれません。

子供の頃は、ひどい吃音で他人と話したことがなかったということですが、東京大学に入

ってからは学生運動のリーダーになっていましたので、吃音は治っていたのでしょうか。

【経歴】…高校卒業まで〈以下、Wikipediaから〉

北海道山越郡の漁師町・長万部町に生まれる。父は夕張郡長沼町の浄土真宗派の末寺の末男で農協職員。札幌郡厚別の信濃小学校、札幌市立柏中学校、北海道札幌南高等学校に進学。高校卒業まではマルクスもレーニンもスターリンも毛沢東も知らぬノンポリであった。18歳まで重症の吃音であり、ほとんど何も喋らずに生きていた。1957年、東京大学を受験するが不合格となり、一年間の浪人生活を送る。

【東大入学以降】

1958年4月、東京大学に入学、三鷹寮に入寮。同年6月、和歌山の被差別部落に入って子供たちに勉強を教える。同年12月に結成された共産主義者同盟(ブント)に加盟。1959年から同大学教養学部で自治会委員長を務める。同委員長の選挙のとき、西部はブントのメンバーたちとともに投票用紙を偽造してすり替え、共産党員の候補を落選させた。全学連の中央執行委員も務め、60年安保闘争に参加。

1961年3月、左翼過激派と訣別。1964年3月、東京大学経済学部卒業。当時、ブントの活動家であった青木昌彦の勧めにより、東京大学大学院に進学、経済学を専攻。指導教官は嘉治元郎。1971年3月、東京大学大学院経済学研究科理論経済学専攻修士課程修了。経済学修士。1972年、連合赤軍による群馬県榛名山での集団リンチ殺人事件(山岳ベース事件)の報道を目にして、多少とも左翼に共感していたことへの道徳的反省をせざるをえなくなる

上の記述の中に、西部が教養学部の自治会委員長選挙の時、西部はブントのメンバーたち

とともに投票用紙を偽造してすり替え、共産党員の候補を落選させ、自分が委員長に当選

したというのがあります。

こんな不正を普通、やりますかね。

大学の自治会委員長選挙ではありますが、「彼の人格に問題あり」と、思いました。

公正な選挙であるからこそ、当選者には支持・信頼が集まると思うんですが、こんな不

正を正義感が強いはずの青年期にやってしまった事実は、その後の西部氏の行動に何ら

かの影響を与え続けたのではないでしょうか。

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西部氏の主張

〈Wikipediaより引用〉イラク戦争について2003年にアメリカがバグダッドを攻撃した時、木村三浩(一水会代表)とともに「これはアメリカの間違いである」、「アメリカのアグレッション、侵略である」、「国際法なんて大したもんじゃないんだけれども、まがりなりにもあるルールをアメリカのように極めて意図的に策略的に踏みにじって、国連決議までも蹂躙しながら行くというのは、どういうことなのか」、「こういう侵略を許すわけにはいかない」と声をあげた。また木村とともに論文集『鬼畜米英 : がんばれサダム・フセインふざけんなアメリカ!!』(鹿砦社、2003年)を出した。『産経新聞』、『正論』、『諸君!』などを中心とする日本の親米保守の知識人たちと一線を画し彼らを批判した。

皇位継承について
皇室の皇位継承について、日本国家を統合するための象徴機能は皇室において、つまり「血」統よりも「家」系を重視する方向において、よりよく維持されると思われるということを理由に、「女系」にも「女子」にも皇位継承が可能なように(皇室典範第二条の)「継承の順位」を変更したほうがよいと述べた。これに対し、一部から「左に回帰した」との反発が起こった。西部は天皇についてたびたび論じている。
国防について

国家の自立と自尊の確保を目指す立場から日本の核武装、徴兵制の導入、防衛費の倍増、尖閣諸島の実効支配強化を主張している。

以上、簡単ではありますが、私の興味の範囲内でまとめてみました。

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