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冒険はロマン!登山家・冒険家の植村直己さんの存在感が絶大な理由

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〈植村直己冒険館 植村直己の故郷・豊岡市〉

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35年経った今でも植村直己さんの存在感が絶大な理由

「ナオミ・ウエムラではないのか?」2011年に目撃された遺体

冒険家・植村直己さんが厳冬のデナリ(マッキンリー・6190メートル)で消息を絶ってから、35年。その遺体はいまだ見つかっていない。しかし数年前、植村さんの遺体ではないかという通報がもたらされ、捜索が行われたことがあった。

2011年5月。デナリの登山基地として知られるアラスカ州の村、タルキートナのレンジャーステーションに、1件の通報がもたらされた。通報したのはアメリカ人の登山家コンラッド・アンカー氏。レンジャーステーションの広報官モーリン・グワルチェリさんによると、次のような通報だったという。

「デナリで、雪に埋もれた遺体を見つけた。髪の毛が露出していて登山装備もいくつか見えた」

そのときタルキートナにはふたりの日本人登山家が滞在していて、この報を耳にしている。花谷泰広さんと谷口けいさん(2015年、大雪山で死去)。いずれも、登山界のアカデミー賞と言われる「ピオレドール賞」を受けた日本を代表する登山家だ。花谷さんによると、この通報には続きがあった。アンカー氏のチームにいたスノーボーダーのひとりがこう補足したという。

「20年ほど前、同じ場所をスノーボードで滑ったことがある。そのときも遺体を見たんだ。青いジャケットのアジアンフェイスだった。傍らにはバンブーポールがあったよ」

レンジャーの間から、こんな声が上がった。

「それは、ナオミ・ウエムラではないのか?」

植村直己さんは冒険に出る際、クレバス(氷の裂け目)に転落するのを防ぐために竹の棒を腰に括り付けていた。竹の棒はいわば、植村さんのシンボルともいえるアイテムだ。デナリ登山の前にもアラスカ・アンカレッジの空港で、妻の公子さんが送った青竹を受け取っている。

花谷さんは振り返る。

「まさか!と思いましたよ。バンブーポールがあってアジアンフェイス、これはもしかしたらと……」

■植村さんはどこに

植村直己さんは1984年2月12日、43歳の誕生日当日に世界初となるデナリの冬季単独登頂に成功した。しかし、翌13日の無線交信を最後に消息を絶つ。

その後、ベースキャンプまで同行していたテレビディレクターで登山家の大谷映芳さんらが捜索に向かい、4200メートル地点と4900メートル地点にある植村さんの雪洞を発見した。さらに2月25日には、植村さんの母校・明治大学山岳部OBによる救援隊が5200メートル地点で新たな雪洞を見つけている。明治大学の救援隊が見つけた雪洞には食料と登山装備が残されていたが、植村さんの姿はなかった。

この発見から、植村さんは登頂後、雪洞に帰り着いていないことが推認されている。雪洞より上部で事故にあったのか、雪洞を見逃してさらに下降中にアクシデントがあったのか。

明治大学は第二次救援隊も派遣し、山頂に植村さんが残した日の丸を回収したが、植村さん本人はついに見つけられなかった。

2011年の通報は、植村さんの行方につながるかもしれない久しぶりの情報だった。

植村さんは、デナリの登山ルートのうち最も一般的な「ウエスト・バットレス」ルートを登っていた。一方、遺体を見たとの通報がもたらされたのは「ウエスト・リブ」ルートという別のルート近くのこと。

別ルートにも関わらず、なぜ植村さんではという声が上がったのか。現役のレンジャー、デビット・ウェーバーさんが解説する。

「ウエスト・リブルートとウエスト・バットレスルートは、山頂からの下り口が同じ側にあるルートです。悪天候時や視界が悪いとき、バットレスルートの代わりにリブルートを下る人は少なくありません。植村さんが登頂後、天候を考慮しての判断か、あるいは道を誤ってかはわかりませんが、リブルートを下った可能性は十分に考えられます」

登頂翌日、上空を飛ぶセスナと無線交信した際に、植村さんは「2万フィート(約6000メートル)地点にいる」と話したが、雑音が多く聞き取れない部分もあった。現在位置がはっきりとわからない旨も話している。また、山頂付近はガスに覆われていて、上空から姿は確認できていない。そのときすでに、ウエスト・リブルートを下っていたとしても不思議ではない。

■通報者が“予感”を高めた

コンラッド・アンカー氏の通報であることも、植村さんではないかという“予感”をより強くした。彼は1999年、エベレストで伝説の登山家ジョージ・マロリーの遺体を発見している。1924年の遭難以来、実に75年ぶりのことで、世界を驚かせた。

「コンラッドなら、植村さんの遺体を見つけてもおかしくないと思いました」(花谷さん)

花谷さんも谷口さんも、植村さんの生きざまに大きな影響を受けた世代。花谷さんは、小学生のころから植村さんの著書を読み漁っていた。谷口さんも生前、植村さんへの憧れを何度も明かしている。花谷さんは言う。

「すごいことになったと思いましたよ。聞けば聞くほど、植村さんだとしか思えない。けいちゃん(谷口さん)とふたりで胸を高鳴らせました。本人やご遺族にとって、見つかることが必ずしも幸せかどうかはわかりません。でも、心震える瞬間だったのは確かです」

そしてまた、現地のレンジャーたちにとっても植村直己さんは特別な存在だった。史上初のデナリ冬季単独登頂という功績と親しみやすい人柄は、今でも語り継がれている。

「ナオミかもしれないという情報にはとても興奮しました」(モーリン広報官)

レンジャーステーションは騒然とし、レンジャーたちが捜索の計画を立て始めたという。

花谷さんと谷口さんはこのとき、滞在期間を終えてタルキートナを離れたために捜索の結果は耳にできなかった。そしてもちろん、植村さんの遺体が発見されたというニュースも流れていない。捜索は空振りだったのだろうか。

先出のレンジャー、デビット・ウェーバーさんは実際に捜索に出向いたひとりだ。

「通報から場所がある程度特定でき、捜索に向かいました。休憩場所としても利用される地点で、雪を掘り起こすこともできたんです。可能性があるポイントを徹底的に探しました」

その結果、複数のパーティが放置したと思われるごみのほか、いくつかの登山装備を見つけた。

「遺体は見つけられませんでした。彼らが髪の毛だと思ったのは、どうやらブーツやフードの防寒に使う動物の毛だったようです。これは植村さんのものだという特定も、逆に否定もできていません」

消息を絶って35年。花谷さんも言うように、本人や遺族にとって遺体が見つかることが必ずしもいいことかどうかはわからない。行方不明であるという事実が植村さんをより伝説的な存在にした面もある。それでも、植村さんはどこにいるのか。そんな疑問に想像を掻き立てられる人は多い。

植村さんは多くの人の心に足跡を残しながら、デナリのどこかに眠っている。
〈出典:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190215-00000090-sasahi-peo

管理人の感想 亡くなられてもう40年も経つんですね

私が学生の頃、超有名な冒険家でした。

ご存命なら、もう70代後半。

亡くなった人が話題になると、何か悲しいような寂しいような気持ちになります。

植村 直已さん

・生年月日:1941年2月12日

・出身:兵庫県城崎郡日高町(現豊岡市)

・失踪したのは1984年2月13日(43歳没)

・失踪場所はアメリカ合衆国 アラスカ州マッキンリー山中

植村直己冒険館

植村直己冒険館が兵庫県豊岡市の植村直己記念スポーツ公園内にあります。

豊岡市日高町には神鍋高原スキー場がありますので、京阪神の皆さんはスキーにいかれた

際に立ち寄ることもできます。

植村直己冒険館

郷土出身の英雄、国民栄誉賞を受賞した世界的冒険家・植村直己の偉業顕彰を目的として1994年4月に開館。2003年1月には 新館が落成、全館リニューアルオープンした。遺族から寄贈された北極圏犬ゾリ単独行装備品を含む約300点の遺品や記念品、写真、映像などが展示されている。植村直己個人を紹介するとともに冒険における技術等を紹介している。

建築家栗生明が設計した冒険館本館は、構造物の大半が地中にあるユニークなデザインで、1996年度日本建築学会賞受賞、1998年の公共建築百選に選出されている。〈引用:Wikipedia

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